わたしが五歳のとき、日本は中国と満州で戦争をはじめました。それ以来、日本と中国は十五年ものながい間、不幸な戦いをすることになってしまいました。満州は、わたしがすんでいた上海から、たいへんとおいところにありました。でも、上海の一部の中国の人たちは、日本人となかよくしようとはしなかったようです。
ちいさかったわたしは、そのようなことはわかりませんでしたが、あぶないから、一人で、あるいは子どもたちだけで、へいの外にでてはいけないといわれていました。
次の年、上海でも日本と中国の戦いがありました。上海事変とよばれています。ますます、中国の人たちの日本人への感情がわるくなってきました。小学校へ入学することになるのですが、わたしがへいの外にでるのは、学校にいくときか、父につれられてあそびにいくときくらいでした。
☆
小学校一年生になってまもなく、戦争がだんだんおおきくなりそうになり、わたしたち家族は日本にもどることになりました。夏の日差しを感じはじめたころではなかったでしょうか。
東京・中野、ここにわたしたち家族はすむことになりました。転校する小学校は、家からすぐちかくにありました。桃園第二小学校です。
母につれられてのはじめての登校。朝礼だったのでしょうか、校庭にたくさんの子どもたちがならんでいました。二十人くらいの列が二十ほどあったようにおもいます(もっとあったかもしれません)。
「トシちゃん、あそこにならぶんですよ」
と、母が指さしたところはいちばん右の列でした。校長先生だとおもうのですが、だん上から、
「あたらしい一年生のお友だちがふえました。戦争のため、中国から日本にもどってきたお友だちです。なかよくしてあげましょうね」
という話をしたようにおぼえています。
教室にはいると、五十人くらいの生徒がいました。一年生は三クラスで男女はべつべつでした。
知らない顔の子ばかりでしたが、ひっこみじあんになることなく、すぐにみんなとなかよしになれたようにおもいます。家から学校までは歩いて五分ほどでしたが、毎朝、二、三人の子がむかえにきてくれました。
しばらくたったある日の朝礼、とてもかわいい女の子がお父さんにつれられてやってきました。転校生です。その日から、わたしはその女の子のことが気になりました。
アメリカのマンガにでてくる主人公のような女の子で、目がパッチリしていて、色白。かみはパーマをかけていました。小学校でパーマをかけている子なんていませんから、それだけで目立ちます。
毎朝、お父さんが車で送ってきます。もちろん、車で学校にくる子もいません。わたしはとおくからながめていました。毎日かわるカラフルな洋服はかわいく、いつも新品のようにせいけつな感じがしました。その子がとてもまぶしくみえました。
顔をみることができるのは、毎朝の登校のときと、朝礼のときだけです。あそび時間になると、みんな校庭にでます。わたしは気がつくと、その子の姿をおいもとめていました。たまにみかけるその子は、いつもひとりぼっちで、ほかの子と話したり、あそんだりしません。
校舎のかべによりかかっていたり、砂場のふちにこしかけて、あそんでいるみんなをジーっとみているか、とおくの空をみつめているばかりでした。わたしはそんなその子をみて、なぜかかなしい気持ちになりました。
男の子は男の子だけで、女の子は女の子だけであそびます。それがあたりまえになっていましたので、その子をさそってあげて、いっしょにあそぼうというかんがえはうかびませんでした。
ある日の朝礼のことです。わたしはおチビさんだったのでまえのほうにならびます。その子はとなりのとなりの列に、わたしよりすこしうしろにならんでいます。わたしは顔をすこし左に、そして下に向け、肩ごしにチラチラと、その子のほうに目をやっていました。
何回目にか、その子の目とあってしまいました。ふしぎそうな顔をしてわたしをみます。
(あっ、いけない)
わたしはあわててまえを向きました。むねがドキドキ、ではなく、ドッキンドッキンとなりだしました。
どうやってしらべたのかおぼえていませんが、その子がすんでいる家がどこにあるのかもしっていましたし、お母さんがなくなっていることもしっていました。きっと、きれいなお母さんなのだろうと想像していました。
その子の家は二階建ての洋館。鉄のさくでかこまれ、庭はひろく木々がおいしげっていました。外国人の家のようで、とてもりっぱでした。
車での登校、カラフルな洋服、りっぱな洋館、お金持ちなんだなあ、とおもっていました。かわいい子なのに、だれともあそばずにさみしそうにしている。そして、お母さんがいない。わたしがその子のことを気にしたのは、そんな理由があったからかもしれません。
何年生のときだったかおぼえていません。友だちと下校のときか、それともあそんでいた夕方だったでしょうか。おとなたちが、
「火事だっ」
と、ドヤドヤとはしっていきます。消防団が一台、二台とやってきました。わたしたちはそのあとを、興奮しながら一生けん命おいかけました。
「あっ」
火事は、その子がすんでいる洋館でした。二階から火がでていました。たいへんなことになるのではないかと、わたしは息ぐるしくなってきました。人だかりが、もうできていました。わたしたちはもぐりこむようにして、みんなのまえのほうにでていきました。
消防士さんたちがもつホースから、水がいきおいよくでています。たくさんのおとなたちが大声でさけびながら、あたりをはしりまわっています。家の中から、おおきなものをはこびだしている人たちもいました。
(あの子はどうしたろう)
(お手伝いをしなければ)
そんなことをおもったとおもいます。でも、ただこわさでそこにたっているだけでした。
火はおさまりましたが、きれいな洋館のかべは真っ黒になり、水びたしでした。洋館のまわりもビシャビシャで、いろいろなものがちらかっていました。庭の木が何本かおれていました。けむりがまだモウモウとたちこめていて、シューシューという音がきこえてきました。
わたしはすこしおちついたようです。その子がちかくにいないかと、あたりを目でさがしていました。
(どこにいったんだろう)
(もう、どこか安全なところにいっちゃったんだ)
その子のすがたがみえないということは、わたしにとっておおきな不安になりました。家にかえってから、両親に火事の話をしながらたべた夕ごはんは、あまりすすまなかったようです。でも、とてもつかれたせいか、いつのまにかグッスリとねむってしまいました。
次の日、いつもよりはやく目がさめました。
(あの子はどうなったのだろう)
(学校にくるかな)
その子がくるのをたしかめようと、すこしはやく登校しました。でも、その子は学校にきませんでした。ずーっとずーっときませんでした。
その子がまた、転校していったのをしったとき、上海から日本にもどる船の上で、もうみんなとあえないのかとおもったときと、おなじようにかなしい気持ちがしました。いつもいる人がいなくなる。それはとてもさみしくかなしい経験でした。
男の子が女の子をすきになるって、どんなことかまだわからないときです。おとなになってかんがえたとき、それはわたしの初恋だったのかもしれないとおもいました。とおいとおい昔のことです。その女の子の名前をどうしてもおもいだせません。
☆
小学校時代で、もう一人わすれられない子がいました。青柳くんという男の子です。家がちかいので、毎日、青柳くんの家のまえをとおって学校にいきます。二階建てで、わたしの家よりも二倍も三倍もおおきな家です。
青柳くんは知的障害のある子で、お手伝いさんが毎日、おくりむかえしていました。でも、いつもしらない間にいなくなってしまいます。みんなで、学校中をさがしまわったことがなんどもあります。
二時間目、三時間目がはじまるころになると、いなくなってしまうのです。はじめての行方不明事件は、
「あれっ、青柳くんはどうした?」
という先生のことばからはじまりました。だれかが、
「便所じゃねーのか」
というと、別の子が、
「学校のおじさんたちがたきびをしているところに、いたみたいだったよ」
といいだし、教室中がザワザワガヤガヤしてきました。
「先生、みてくるよ」
だれかの一声で、大捜査がはじまりました。わたしたち少年たんてい団は、トイレ組とたきび組にわかれてとびちりました。わたしはトイレ組。
「おちちゃったんじゃねーのか」
昔のトイレは、いまとちがって水洗でもないし、洋式でもありません。便器には底がなく、深くてくらいおおきな穴が下にひろがっています。子どもたちにはすこしこわいところです。
「おーい、いたら返事しろよ」
と、便器をのぞきこむようにしてさけぶ子がいました。わたしは、おちていたら、返事なんてできるはずがないとおもいながらも、おちていたらどうしようとこわくなってきました。
けっきょく捜査は失敗で、青柳くんはみつかりませんでした。先生が青柳くんの家とれんらくをとったのでしょう。青柳くんは家にかえっていました。
青柳くんがいなくなると、先生は家にすぐれんらくをとるのですが、青柳くんは、まっすぐにもどらないときもあって、また、大捜査がはじまるのです。
二年生か三年生になったころでしょうか。わたしは級長(学級委員)をやっていましたので、青柳くんがいなくなると、
「青柳くんの家にいってみてくれないか」
と、先生につれもどしてくるよう、よくいわれました。それで、昼休みに青柳くんの家にいき、門の外からおおきな声でよびかけます。
「いっしょに学校にいこうよ」
でも、青柳くんは、いつも家からでてこようとはしませんでした。
わたしは、青柳くんを学校につれてくることが、自分の役目のようにおもうようになりました。朝、なんどか青柳くんをむかえにいきました。
「青柳くん、学校、いこう」
すると、お手伝いさんが、門のそばにあるちいさな通用口から、すまなそうな顔をしてでてきます。
「ごめんなさいね。もうすこししたら学校につれていきますから」
お手伝いさんは、たいがいそういいます。でも、学校を休んでしまうことがしょっちゅうありました。そんなことが何回もつづいて、わたしは青柳くんをさそうのをやめてしまいました。先生は、毎日さそってあげてといいます。それで、また、さそいにいくのですが、お手伝いさんが、
「きょうはぐあいがわるいので、やすみます」
というときがあります。
「先生、青柳くんは休みです」
というと、先生に、
「どうしてつれてこないの」
と、しかられたりしたことが何回もありました。
(ぼくがわるいんじゃないのに、なんでしかられなければならないの)
と、ちょっとほっぺがふくらむときがありましたが、先生はわたしを信頼していたのだとおもいます。
声をかけてなかよくしてくれる子がいれば、青柳くんが学校にくるようになるとかんがえていたのでしょう。
わたしにも同じ気持ちがありました。青柳くんをなんとかして、学校にこさせたいとおもっていましたが、それ以上のことはできませんでした。青柳くんが学校にこないのは、自分の努力がたりないからだと、ちいさな胸をいためたものでした。
青柳くんといっしょにあそんだおもいだでありませんし、話をしたという記憶もありません。たまに教室にいる青柳くんは首をかしげ、無表情になにかをみているだけでした。青柳くんもそのうち、学校にこなくなってしまったようにおもいます。
最近、駅の構内で、お兄さんやお姉さんたちが何人かで、車イスの身障者の人のお世話をしている光景をよく目にすることがあります。その人たちはみんな笑顔にあふれ、まわりをあかるくしてくれます。
よわい人を、やさしくつつみこんであげようとすると、かならず何人かの人たちが力をあわせようとしてくれます。みんなで力をあわせてがんばろうという気持ちが、自然にわいてくるのでしょう。そうすることで、みんな人間的にりっぱに成長していくのだとおもいます。
青柳くんのこともそうでした。二、三人のなかよしの友だちが、わたしといっしょになって青柳くんをむかえにいきました。そのとき、わたしはちょっぴり、おとなになったような気がしていました。きっと友だちも、そんな気持ちになっていたとおもいます。
Leave a comment