はじめに
この本を書いておきたいと思うようになったそもそものきっかけは、半世紀にわたる技術の歴史を振り返り、そこに残されたものはなんであったかを考えるとき、私なりの答えが返ってきたからなのです。
私は「世の中のために役に立つ仕事を残したか」という問いには、「はい」と自信をもって返事をすることができます。
人間は、より幸福で平和な文明社会を築くために、知恵を出し合って一歩一歩進んできました。その知恵が一代で終わってしまえば、次の世代は、またはじめから同じことを繰り返すことになり、そこには知恵の蓄積もない、進歩もない、動物的本能だけの人間社会に終始していたことでしょう。
しかしいつの時代からか、人間は言葉による意思の伝達ができるようになり、絵を描き、文字を発明し、それを石に刻んで歴史を後世に残し、パピルスや紙を使うことで広い地域との文通が可能となり、さらに紙に印刷する手段を発明して、大量の本を配布することができる文明の時代へと変わってきました。
文明が発展する原動力は、自分の意思を伝える手段と、それを後世に残しておく手段とを獲得したことなのです。
現代になると、それが電話による即時通話や広範囲な伝達手段となり、写真によるフィルムへの画像の蓄積、ファックスによる文書の配布となり、さらには動画を見るための映画の発明となったのでした。最近では、音声を記録するレコード盤からテープレコーダーへと発展し、光記録を応用したCD、MDなどが使われるようになり、テレビジョンからビデオの記録へと急速な発展を遂げています。それに加えるに、コンピュータによる膨大なメモリデバイス(記録装置)への蓄積が急加速しつつあります。
第二次世界大戦以後の五〇年間のエレクトロニクスの発展による記録技術の進歩はめざましく、特に磁気記録はその先端を切って発展してきました。音声も画像も動画像も、そのまま次の世代へ保存し、引き継ぐことができるようになったのです。
先人の業績を次世代の人々に伝えることで文明が発展する、その原動力の一つである磁気記録を、私は半世紀にわたってコツコツと開発してきました。当時はただ一生懸命働くばかりでしたが、今になって、世の中に大変役立つ仕事であったと思えるようになってきました。
私は次の世代の人たちに伝えるべき目標をはっきりと提示できるだろうか。その問いにも、私は「はい、可能です」と返事したいのです。
無我夢中で技術の蓄積をしてきた私のノウハウを、次の人たちに伝えなければいけないなと考えはじめて数年以上経ちましたが、やっとまとめることができたのがこの本です。
私が考え、私が汗して作ったものは、私本人しか本当のことが書けないと思います。今まで何回となくインタビューを受け、新聞や雑誌に書かれてはおりますが、それらはすべて他人が見た私の姿であり、多少フィルターのかかった私の意見でしかありませんでした。
その意昧で、この本には、本当の私の考え、本当の私の経験、本当にあった出来事、それに今まで話をしなかったようなエピソードも、包み隠さず書き留めておきたいと思い、筆を執った次第です。
この本には、そんな私の願いが込められております。自分の作り上げた技術が、文明の進歩に役立ったという幸福感や満足感を味わったときこそ、技術者は最高の喜びを得られるのだと思います。もちろん技術者の方ばかりでなく、読んでくださった方の一人ひとりが、この本からなにか一つでも共感され、実行されて、大きな喜びを得られたら、それこそ私にとって望外の幸せとなることでしょう。
平成九年新しき春を迎えて
木原信敏
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