公開日 : 2018/08/03

ひきょう者はゆるせない

 わたしは一九二六年十月十四日に、東京とうきょうでうまれました。ちちの名前は信和のぶたかははの名前は花子はなこです。思い出にのこっているのは、四歳からあとのことです。

 父は、日本郵船にほんゆうせんというおおきなふねの会社につとめていました。そのころの日本郵船は、いまでいうと、日本航空にほんこうくう全日空ぜんにっくうのようなもので、あこがれの会社でした。ですから、父は船にのってよく外国がいこくにいっていました。

 わたしも父につれられて、三歳から七歳までのあいだに、三回も船旅ふなたびをしています。豪華客船ごうかきゃくせん中国ちゅうごく上海しゃんはいにいきましたし、太平洋たいへいようをわたってアメリカのシアトルにもいったようです。

 船にはプールがあり、テニスコートや卓球場たっきゅうじょうがありました。とてもおおきくて、うつくしい船です。

 あるとき、よくはれわたった空、フワフワとした白いくもあおでひろびろとしたうみに、わたしはワクワクしてきました。

 「あの雲にのってみたいなあ」

 「おさかなさん、どこにいますか」

 「海のずっとずっとこうには、なにがあるんだろう」

 船のうえではおとなのひとたちが散歩さんぽしています。もううれしくなって、キャッキャいいながら、そこらじゅうをかけまわっていました。かおをしった船員せんいんさんがこえをかけてきました。

 「トシちゃん、なにしてるの」

 「探検たんけんしてるんだ」

 「よーし、つかまえちゃうぞ」

 「いーだっ」

 調子ちょうしにのりすぎたのでしょうか。船の上だけでなく、船のなかまで探検してしまいました。ところが、あまりにもひろいので、自分の部屋へやがどこにあるのか、わからなくなってしまいました。まいごになってしまったのです。

 どこか見覚みおぼえのあるところはないかと、キョロキョロしていましたが、すれちがうおとなの人が、みなこわい人にみえ、くちはへのになり、はながクスンクスンとなってきました。さっきの船員さんがやってきました。

 「トシちゃん、どうしたの?そのお顔は……はて、まいごになったのかな」

 わたしはおもわず、ちいさくうなずいていました。そんなおもがのこっています。

 船旅でいちばんおぼえているのは、豪華ごうかでおいしくて、プーンとよいかおりがする料理りょうりです。

 な色をしたおおきなエビ、わたしの顔くらいあるにくのかたまり、あかあおがいっぱいのデザート、みなどれもおいしそうで、ぜんぶ一人じめにしたいほどでした。なかでもスープがとてもおいしく、その香りは、いまでもはっきりとおぼえています。世界せかい国々くにぐにからえらばれたコックさんが、料理をつくっていました。

 母は学生がくせいだったころ、夏休なつやすみの半分はんぶんはロシアにいっていたそうです。母の父、つまり、わたしのおじいさんは、世界の国々といろいろな問題もんだいをはなしあう外交官がいこうかんで、ロシア領事館りょうじかん(ロシアにすむ日本人の安全あんぜんをまもる役所やくしょ)にいたからです。

 木原家きはらけは、両親りょうしんもわたしもみんな、外国にはなれていたのです。

 わたしが四歳になったとき、父の転勤てんきんのため、家族かぞくは上海でくらすことになりました。

 上海は、中国でいちばんながいかわ揚子江ようすこう河口かこうにあり、おおきな都市としです。日本の鹿児島県かごしまけんよりも、すこしみなみにあります。ヨーロッパふう建物たてものがたちならび、ヨーロッパのどこかの港町みなとまちのようです。

 その上海の町の半分はんぶんは、ヨーロッパの国やアメリカ、そして、日本などが中国に進出しんしゅつするためにつくった租界そかいでしめられていました。租界というのは、外国人が、中国の規則きそくにしたがわないで、自由じゆうにすめる町です。

 日本租界には、公園こうえん小学校しょうがっこう、会社の社宅しゃたく、ホテル、おてら映画館えいがかんなどがあり、日本国内こくないの町とほとんどかわりません。二万人もの日本人がくらしていました。

 わたしたちは、その租界にある、日本郵船の社宅にすむことになりました。社宅は安全あんぜんをまもるために、たかいへいにかこまれていました。へいのたかさは二メートルはあり、大人でものりこえられません。

 出入でいぐちが一つだけあり、そこには日本人の守衛しゅえいさんがいて、見知みしらぬ人はかってにはいることができません。へいのなかには、五十けんほどのいえがあり、人々ひとびとはまとまってくらしていました。たかいへいにかこまれた家々のかたまりは、租界のあちこちにありました。

 わたしの家は、鉄筋てっきんコンクリートの二階建にかいだて。一階は食堂しょくどうをかねた居間いまになっていて、台所だいどころもありました。居間はひろく、暖炉だんろがあり、ピアノがおかれていました。二階には洋間ようま日本間にほんま二部屋ふたへやがあり、わたしたちはそこでねていました。

 日本間にはおしいれがあり、そこにはおかしがはいったおおきなカンがありました。そのカンを「トシちゃんの宝箱たからばこ」と、両親はいっていました。まるいふたがキチッとはめこまれているので、あけるのにはツメをつかい、ちからがいります。いきおいあまって、ひっくりかえることが何回なんかいもありました。

 おおきなカンですから、をいれると、かたぐらいのふかさがあります。なにがでるかな、どんなおかしがあるかなと、それはもうたのしみでした。

 家のうらにはおおきな広場ひろばがあり、わたしのあそび場所ばしょになっていました。野鳥やちょうの声がよくきこえてきましたが、はすくなかったようにおぼえています。広場には小山こやまや、いくつかの砂場すなばがあり、はしりまわったり、すもうをとったりしました。毎日毎日まいにちまいにち近所きんじょの子どもたちと、どろだらけになってあそんでいました。

 広場もへいでかこまれていましたが、そのへいは、たかくなっているおもてがわとちがってひくく、その向こうにはしる汽車きしゃがよくみえました。五十車両しゃりょうほどつながった貨物列車かもつれっしゃが、シュッシュポッポ、ゴトンゴトンとはしっていくのを、ながいなあとおもいながらみていました。上海のえきからきたにむかっていた鉄道てつどうです。

 よくやったあそびは、「水雷艦長すいらいかんちょう」というあそびです。これはさいてい六人ろくにんいなければできません。ふたつのチームにわかれ、電信柱でんしんばしらなど、めやすになるところを、それぞれの陣地じんちにします。五十メートルくらい、はなれていたほうがいいとおもいます。

 どういうあそびかせつめいしましょう。一人が艦長になります。あそぶ人数にんずうがおおくても艦長だけは一人です。あとは、水雷と駆逐艦くちくかんやくをやります。艦長は戦艦せんかんでいちばんえらい人。水雷は水中すいちゅう爆発ばくはつして船をしずめる爆弾ばくだんです。駆逐艦はせめることだけを目的もくてきとした、ちいさくてスピードがでる戦艦のことをいいます。

 艦長は駆逐艦をつかまえることができますが、水雷につかまってしまいます。駆逐艦は水雷をつかまえることができますが、艦長からはにげなければいけません。水雷は艦長をねらい、駆逐艦にねらわれます。

 陣地にいればつかまりませんが、電信柱にさわっていないとつかまってしまいます。たとえば、相手あいてのチーム全員ぜんいんが陣地にいた場合ばあい味方みかたの駆逐艦が相手の水雷をひっぱって、電信柱からをはなさせてしまえば、つかまえたことになります。このとき、相手の艦長につかまらないようにしなければいけません。

 でも、そんなたたかいはめったにありません。みんなはしりまわって、おいかけたり、にげたりしてあそびます。相手のからだにさわれば、つかまえたことになります。つかまえた相手は、自分の陣地につれてきます。つかまった人をたすけることもできます。相手につかまらないようにして、つかまっている味方のからだにさわればいいのです。このあそびは、相手を全員つかまえるまでつづきます。

 とてもいやな子がいました。わたしよりすこし年上で、からだもおおきい。「水雷艦長」をやると、ちいさい子を、むりやりひきずりたおしたりします。また、わたしが駆逐艦で、水雷のその子をつかまえようとすると、

 「ちがうよ。ぼくも駆逐艦だ」

 と、うそをつくのです。それだけでなく、つかまっても、

 「つかまってなんかないよーだ」

 といってにげていきます。ずるくてひきょうな子です。

 あるとき、その子は、陣地の電信柱にしがみついている、ちいさい子のうでをほどこうとして、ひっかきました。それはもういたかったのでしょう。ちいさい子はなきだしてしまいました。そばをとおりかかった近所のおばさんが、

 「なかよくあそばなきゃだめよ」

 といったところ、その子は、

 「ずるいんだよ、つかまえたのににげるんだもん」

 と、平気へいきでうそをつきました。そのとき、わたしはその子のおなかをめがけて、あたまからぶつかっていき、こしのあたりにくらいつきました。

 「トシちゃん、なにするんだよ、やめろよ」

 「ずるいのはおまえだ」

 その子は、うえからわたしの背中せなかをたたいたり、顔や腕をひっかきます。でも、わたしはぜったいにまけるものかと、その子をおしたおしてしまいました。

 たおれたしゅんかん、二人のからだがはなれ、その子はたちあがると、かけてにげていきました。わたしもたちあがり、かたをいからせ、ほっぺをふくらませて、その子のうしろすがたをにらみつづけました。

 「トシちゃん、すごいよ。つよいね」

 みんなの声に、わたしはすこし得意とくいげになっていました。

 「あんな子になってはいけないんだ」

 ちいさいながらも、そんなことをおもったのを、いまでもおぼえています。

このケンカは、わたしにとって最初さいしょ最後さいごのものとなりました。

 両親がよく外国にいっていたせいか、わたしは父と母をパパ、ママとよんでいました。一九三〇年代のはじめごろですから、いまとちがって、パパ、ママとよんでいる子は、近所にはいません。ちいさかったから、べつににもなりませんでした。

 家には、中国人ちゅうごくじんのアマ(お手伝てつだいの女の人)がいっしょにくらしていました。アマは料理りょうりがとてもじょうず。

 もちろん、母も料理は得意で、お正月しょうがつのおせち料理はきれいでおいしく、わたしは、とくにあまくにたまめがだいすきでした。ワカサギのカラあげもおいしく、いまでも、母におしえられたとおりにつくってたべています。これはにつけてたべます。

 アマはよくギョウザや、ラーメンのようなおそばをつくってくれました。アマがギョウザをつくりはじめると、わたしもいっしょになって、ギョウザのかわをつくりました。

 「トシちゃんは、お手伝いがじょうずですね」

 といわれると、うれしくてうれしくて。でも、ほんとうは、ギョウザの皮をつくることが、おもしろくてしょうがなかったのです。

 みずをふくませた小麦粉こむぎこを手でこね、ねんどのようにしてかたまりにします。それをうすくたいらにのばしていきます。そして、しろこなをパラパラとかけます。そして、カンのふたで、キュルキュルとまるくきりとります。これでギョウザの皮ができあがり。

 白い粉は、皮をかさねたとき、くっつかないようにするためです。この白い粉を手でにぎりしめると、キュッというようなおとがして、とても気持きもちがいい。手のひらいっぱいに白い粉をのせて、にぎろうとしたとき、ハ、ハックションとくしゃみがでました。白い粉はパッとまいあがり、わたしの顔はしろに、にも、くちにもはいってしまいました。はなにもはいったので、ムズムズ、もう一度ハックション。

 「おやおや、七五三しちごさんのお顔になりましたね」

そばにいた母はわらいながらいいました。七五三のお祝いでは、男の子も女の子のように顔を白くぬって、きれいにします。その顔と同じになってしまったようです。

 「お手伝いは、じょうずにしてちょうだいね」

母はまたニコリ。しかられるかなあ、とおもっていたわたしも、ついつられてニコリ。とてもやさしい、やさしい母です。

 そのころのわたしのいちばんのおたのしみは、日曜日にちようびになると、父がつくってくれるアイスクリームをたべること。父は上海市内で、アイスクリームをつくる機械きかいをみつけ、かってきたのです。

 「パパは、アイスクリームさんと同じものをつくっちゃうんだ。すごいすごい」

 にばんめのおたのしみは、父があそびにつれていってくれることでした。出入り口からとおりにでると、父はいつも右手みぎてをあげます。そして、

 「ウォンパーツ、ライライ」

 というと、ちかくに何台なんだいもとまっている人力車じんりきしゃが一台いそいでやってきます。ウォンパーツというのは人力車のことで、くるまいすの車輪しゃりんをおおきくし、すわるところが、もっとたかいところにあるのりものです。それを人がひいていくのです。ライライというのは、「こっちにきなさい」という意味いみで、英語えいごでいうならば「カモン」です。

 父が、わたしにはわからないことばでなにかいうと、人力車がスーっとよってくるのですから、わたしにはふしぎでした。アイスクリームをつくったり、人力車をよんだりする父は、わたしのじまんでした。

 わたしはちょっとおしゃれな子でした。といっても、ほんとうは両親が気をつかってくれたのです。なつは、近所の子がみんなはんズボンだったのに、わたしだけたいがいながズボン。ふゆになると、母があんでくれたもよういりのセーターを、よくきていました。何色なんしょくもつかっていてよそいきふう。

 くつはいつもかわぐつ。上海で一番といわれるくつ屋さんで、毎年つくってくれました。あみあげといって、そこがふかく、くるぶしのところまでヒモでむすぶくつです。足のこうのところで、ベルトでしめるくつもおきにいり。

 ときには、サッカーであそぶことがありましたが、かわぐつでけるとボールがよくとびます。かわぐつをはいているのは、わたししかいません。だから、いつもわたしはシュートをうつ役でした。

 上海時代のことは、もう七十年もまえのことですから、おぼえていることがあまりありません。幼稚園ようちえんにかよっていましたが、幼稚園のことはほとんどおぼえていませんし、小学校しょうがっこうも家のちかくだった、ということだけしかおもいだせません。小学校に入学してすぐに日本にもどったので、あまりおぼえていないのでしょう。

 ふしぎなけしきをおぼえています。上海のちかくでしょうか、あるいは、ずっと北の北京ぺきん満州まんしゅうでしょうか、父につれられてあそびにいったときのことです。

 東京とうきょうドームがいくつもいくつもできてしまうほどひろい野原のはらにたって、わたしはとおくにひろがる地平線ちへいせんをみていました。地平線はすこしまるみをもっていました。雲がとおくにながれていきます。地平線のほうの空はゆうやけであかくなっていました。まるでゆうやけこやけのうたのようです。

 でも、わたしが真上まうえをみあげると、真っ青な空がひろがっています。地平線のほうは夕方ゆうがたで、わたしがたっているところはまだ昼間ひるま時間じかんがあるのです。

 中国という国が、たいそうおおきくひろいところなのだなあと、このときおもいました。

 それ以降、こういった景色けしきはみたことがありません。この景色をおもいだすとき、いつもむねがキュンとなり、なつかしさがジワジワとこころのなかにひろがってきます。