わたしは一九二六年十月十四日に、東京でうまれました。父の名前は信和、母の名前は花子です。思い出にのこっているのは、四歳からあとのことです。
父は、日本郵船というおおきな船の会社につとめていました。そのころの日本郵船は、いまでいうと、日本航空や全日空のようなもので、あこがれの会社でした。ですから、父は船にのってよく外国にいっていました。
わたしも父につれられて、三歳から七歳までのあいだに、三回も船旅をしています。豪華客船で中国の上海にいきましたし、太平洋をわたってアメリカのシアトルにもいったようです。
船にはプールがあり、テニスコートや卓球場がありました。とてもおおきくて、うつくしい船です。
あるとき、よくはれわたった空、フワフワとした白い雲、真っ青でひろびろとした海に、わたしはワクワクしてきました。
「あの雲にのってみたいなあ」
「お魚さん、どこにいますか」
「海のずっとずっと向こうには、なにがあるんだろう」
船の上ではおとなのひとたちが散歩しています。もううれしくなって、キャッキャいいながら、そこらじゅうをかけまわっていました。顔をしった船員さんが声をかけてきました。
「トシちゃん、なにしてるの」
「探検してるんだ」
「よーし、つかまえちゃうぞ」
「いーだっ」
調子にのりすぎたのでしょうか。船の上だけでなく、船の中まで探検してしまいました。ところが、あまりにもひろいので、自分の部屋がどこにあるのか、わからなくなってしまいました。まいごになってしまったのです。
どこか見覚えのあるところはないかと、キョロキョロしていましたが、すれちがうおとなの人が、みなこわい人にみえ、口はへの字になり、はながクスンクスンとなってきました。さっきの船員さんがやってきました。
「トシちゃん、どうしたの?そのお顔は……はて、まいごになったのかな」
わたしはおもわず、ちいさくうなずいていました。そんな思い出がのこっています。
船旅でいちばんおぼえているのは、豪華でおいしくて、プーンとよい香りがする料理です。
真っ赤な色をしたおおきなエビ、わたしの顔くらいある肉のかたまり、赤や黄や青がいっぱいのデザート、みなどれもおいしそうで、ぜんぶ一人じめにしたいほどでした。なかでもスープがとてもおいしく、その香りは、いまでもはっきりとおぼえています。世界の国々からえらばれたコックさんが、料理をつくっていました。
母は学生だったころ、夏休みの半分はロシアにいっていたそうです。母の父、つまり、わたしのおじいさんは、世界の国々といろいろな問題をはなしあう外交官で、ロシア領事館(ロシアにすむ日本人の安全をまもる役所)にいたからです。
木原家は、両親もわたしもみんな、外国にはなれていたのです。
わたしが四歳になったとき、父の転勤のため、家族は上海でくらすことになりました。
上海は、中国でいちばんながい河、揚子江の河口にあり、おおきな都市です。日本の鹿児島県よりも、すこし南にあります。ヨーロッパ風の建物がたちならび、ヨーロッパのどこかの港町のようです。
その上海の町の半分は、ヨーロッパの国やアメリカ、そして、日本などが中国に進出するためにつくった租界でしめられていました。租界というのは、外国人が、中国の規則にしたがわないで、自由にすめる町です。
日本租界には、公園、小学校、会社の社宅、ホテル、お寺、映画館などがあり、日本国内の町とほとんどかわりません。二万人もの日本人がくらしていました。
わたしたちは、その租界にある、日本郵船の社宅にすむことになりました。社宅は安全をまもるために、たかいへいにかこまれていました。へいのたかさは二メートルはあり、大人でものりこえられません。
出入り口が一つだけあり、そこには日本人の守衛さんがいて、見知らぬ人はかってにはいることができません。へいのなかには、五十けんほどの家があり、人々はまとまってくらしていました。たかいへいにかこまれた家々のかたまりは、租界のあちこちにありました。
わたしの家は、鉄筋コンクリートの二階建。一階は食堂をかねた居間になっていて、台所もありました。居間はひろく、暖炉があり、ピアノがおかれていました。二階には洋間と日本間の二部屋があり、わたしたちはそこでねていました。
日本間にはおしいれがあり、そこにはおかしがはいったおおきなカンがありました。そのカンを「トシちゃんの宝箱」と、両親はいっていました。まるいふたがキチッとはめこまれているので、あけるのにはツメをつかい、力がいります。いきおいあまって、ひっくりかえることが何回もありました。
おおきなカンですから、手をいれると、肩ぐらいのふかさがあります。なにがでるかな、どんなおかしがあるかなと、それはもうたのしみでした。
家のうらにはおおきな広場があり、わたしのあそび場所になっていました。野鳥の声がよくきこえてきましたが、木はすくなかったようにおぼえています。広場には小山や、いくつかの砂場があり、はしりまわったり、すもうをとったりしました。毎日毎日、近所の子どもたちと、どろだらけになってあそんでいました。
広場もへいでかこまれていましたが、そのへいは、たかくなっているおもてがわとちがってひくく、その向こうにはしる汽車がよくみえました。五十車両ほどつながった貨物列車が、シュッシュポッポ、ゴトンゴトンとはしっていくのを、ながいなあとおもいながらみていました。上海の駅から北にむかっていた鉄道です。
よくやったあそびは、「水雷艦長」というあそびです。これはさいてい六人いなければできません。二つのチームにわかれ、電信柱など、めやすになるところを、それぞれの陣地にします。五十メートルくらい、はなれていたほうがいいとおもいます。
どういうあそびかせつめいしましょう。一人が艦長になります。あそぶ人数がおおくても艦長だけは一人です。あとは、水雷と駆逐艦の役をやります。艦長は戦艦でいちばんえらい人。水雷は水中で爆発して船をしずめる爆弾です。駆逐艦はせめることだけを目的とした、ちいさくてスピードがでる戦艦のことをいいます。
艦長は駆逐艦をつかまえることができますが、水雷につかまってしまいます。駆逐艦は水雷をつかまえることができますが、艦長からはにげなければいけません。水雷は艦長をねらい、駆逐艦にねらわれます。
陣地にいればつかまりませんが、電信柱にさわっていないとつかまってしまいます。たとえば、相手のチーム全員が陣地にいた場合、味方の駆逐艦が相手の水雷をひっぱって、電信柱から手をはなさせてしまえば、つかまえたことになります。このとき、相手の艦長につかまらないようにしなければいけません。
でも、そんな戦いはめったにありません。みんなはしりまわって、おいかけたり、にげたりしてあそびます。相手のからだにさわれば、つかまえたことになります。つかまえた相手は、自分の陣地につれてきます。つかまった人をたすけることもできます。相手につかまらないようにして、つかまっている味方のからだにさわればいいのです。このあそびは、相手を全員つかまえるまでつづきます。
とてもいやな子がいました。わたしよりすこし年上で、からだもおおきい。「水雷艦長」をやると、ちいさい子を、むりやりひきずりたおしたりします。また、わたしが駆逐艦で、水雷のその子をつかまえようとすると、
「ちがうよ。ぼくも駆逐艦だ」
と、うそをつくのです。それだけでなく、つかまっても、
「つかまってなんかないよーだ」
といってにげていきます。ずるくてひきょうな子です。
あるとき、その子は、陣地の電信柱にしがみついている、ちいさい子の腕をほどこうとして、ひっかきました。それはもういたかったのでしょう。ちいさい子はなきだしてしまいました。そばをとおりかかった近所のおばさんが、
「なかよくあそばなきゃだめよ」
といったところ、その子は、
「ずるいんだよ、つかまえたのににげるんだもん」
と、平気でうそをつきました。そのとき、わたしはその子のおなかをめがけて、頭からぶつかっていき、こしのあたりにくらいつきました。
「トシちゃん、なにするんだよ、やめろよ」
「ずるいのはおまえだ」
その子は、上からわたしの背中をたたいたり、顔や腕をひっかきます。でも、わたしはぜったいにまけるものかと、その子をおしたおしてしまいました。
たおれたしゅんかん、二人のからだがはなれ、その子はたちあがると、かけてにげていきました。わたしもたちあがり、肩をいからせ、ほっぺをふくらませて、その子のうしろすがたをにらみつづけました。
「トシちゃん、すごいよ。つよいね」
みんなの声に、わたしはすこし得意げになっていました。
「あんな子になってはいけないんだ」
ちいさいながらも、そんなことをおもったのを、いまでもおぼえています。
このケンカは、わたしにとって最初で最後のものとなりました。
両親がよく外国にいっていたせいか、わたしは父と母をパパ、ママとよんでいました。一九三〇年代のはじめごろですから、いまとちがって、パパ、ママとよんでいる子は、近所にはいません。ちいさかったから、べつに気にもなりませんでした。
家には、中国人のアマ(お手伝いの女の人)がいっしょにくらしていました。アマは料理がとてもじょうず。
もちろん、母も料理は得意で、お正月のおせち料理はきれいでおいしく、わたしは、とくにあまくにた豆がだいすきでした。ワカサギのカラあげもおいしく、いまでも、母におしえられたとおりにつくってたべています。これは酢につけてたべます。
アマはよくギョウザや、ラーメンのようなおそばをつくってくれました。アマがギョウザをつくりはじめると、わたしもいっしょになって、ギョウザの皮をつくりました。
「トシちゃんは、お手伝いがじょうずですね」
といわれると、うれしくてうれしくて。でも、ほんとうは、ギョウザの皮をつくることが、おもしろくてしょうがなかったのです。
水をふくませた小麦粉を手でこね、ねんどのようにしてかたまりにします。それをうすくたいらにのばしていきます。そして、白い粉をパラパラとかけます。そして、カンのふたで、キュルキュルとまるくきりとります。これでギョウザの皮ができあがり。
白い粉は、皮をかさねたとき、くっつかないようにするためです。この白い粉を手でにぎりしめると、キュッというような音がして、とても気持ちがいい。手のひらいっぱいに白い粉をのせて、にぎろうとしたとき、ハ、ハックションとくしゃみがでました。白い粉はパッとまいあがり、わたしの顔は真っ白に、目にも、口にもはいってしまいました。はなにもはいったので、ムズムズ、もう一度ハックション。
「おやおや、七五三のお顔になりましたね」
そばにいた母はわらいながらいいました。七五三のお祝いでは、男の子も女の子のように顔を白くぬって、きれいにします。その顔と同じになってしまったようです。
「お手伝いは、じょうずにしてちょうだいね」
母はまたニコリ。しかられるかなあ、とおもっていたわたしも、ついつられてニコリ。とてもやさしい、やさしい母です。
そのころのわたしのいちばんのおたのしみは、日曜日になると、父がつくってくれるアイスクリームをたべること。父は上海市内で、アイスクリームをつくる機械をみつけ、かってきたのです。
「パパは、アイスクリーム屋さんと同じものをつくっちゃうんだ。すごいすごい」
にばんめのおたのしみは、父があそびにつれていってくれることでした。出入り口からとおりにでると、父はいつも右手をあげます。そして、
「ウォンパーツ、ライライ」
というと、ちかくに何台もとまっている人力車が一台いそいでやってきます。ウォンパーツというのは人力車のことで、車いすの車輪をおおきくし、すわるところが、もっとたかいところにあるのりものです。それを人がひいていくのです。ライライというのは、「こっちにきなさい」という意味で、英語でいうならば「カモン」です。
父が、わたしにはわからないことばでなにかいうと、人力車がスーっとよってくるのですから、わたしにはふしぎでした。アイスクリームをつくったり、人力車をよんだりする父は、わたしのじまんでした。
わたしはちょっとおしゃれな子でした。といっても、ほんとうは両親が気をつかってくれたのです。夏は、近所の子がみんな半ズボンだったのに、わたしだけたいがい長ズボン。冬になると、母があんでくれたもよういりのセーターを、よくきていました。何色もつかっていてよそいきふう。
くつはいつもかわぐつ。上海で一番といわれるくつ屋さんで、毎年つくってくれました。あみあげといって、そこがふかく、くるぶしのところまでヒモでむすぶくつです。足のこうのところで、ベルトでしめるくつもおきにいり。
ときには、サッカーであそぶことがありましたが、かわぐつでけるとボールがよくとびます。かわぐつをはいているのは、わたししかいません。だから、いつもわたしはシュートをうつ役でした。
上海時代のことは、もう七十年もまえのことですから、おぼえていることがあまりありません。幼稚園にかよっていましたが、幼稚園のことはほとんどおぼえていませんし、小学校も家のちかくだった、ということだけしかおもいだせません。小学校に入学してすぐに日本にもどったので、あまりおぼえていないのでしょう。
ふしぎなけしきをおぼえています。上海のちかくでしょうか、あるいは、ずっと北の北京か満州でしょうか、父につれられてあそびにいったときのことです。
東京ドームがいくつもいくつもできてしまうほどひろい野原にたって、わたしはとおくにひろがる地平線をみていました。地平線はすこしまるみをもっていました。雲がとおくにながれていきます。地平線のほうの空はゆうやけであかくなっていました。まるでゆうやけこやけの歌のようです。
でも、わたしが真上をみあげると、真っ青な空がひろがっています。地平線のほうは夕方で、わたしがたっているところはまだ昼間。時間の差があるのです。
中国という国が、たいそうおおきくひろいところなのだなあと、このときおもいました。
それ以降、こういった景色はみたことがありません。この景色をおもいだすとき、いつも胸がキュンとなり、なつかしさがジワジワと心のなかにひろがってきます。