公開日 : 2018/08/12

初恋は小学一年生で

 わたしが五さいのとき、日本は中国ちゅうごく満州まんしゅう戦争せんそうをはじめました。それ以来いらい、日本と中国は十五年ものながいあいだ不幸ふこうたたかいをすることになってしまいました。満州は、わたしがすんでいた上海しゃんはいから、たいへんとおいところにありました。でも、上海の一部いちぶの中国の人たちは、日本人となかよくしようとはしなかったようです。

 ちいさかったわたしは、そのようなことはわかりませんでしたが、あぶないから、一人で、あるいは子どもたちだけで、へいのそとにでてはいけないといわれていました。

 つぎとし、上海でも日本と中国の戦いがありました。上海事変じへんとよばれています。ますます、中国の人たちの日本人への感情かんじょうがわるくなってきました。小学校へ入学することになるのですが、わたしがへいの外にでるのは、学校にいくときか、父につれられてあそびにいくときくらいでした。

 小学校一年生になってまもなく、戦争がだんだんおおきくなりそうになり、わたしたち家族かぞくは日本にもどることになりました。なつ日差ひざしをかんじはじめたころではなかったでしょうか。

 東京とうきょう中野なかの、ここにわたしたち家族はすむことになりました。転校てんこうする小学校は、家からすぐちかくにありました。桃園ももぞの第二だいに小学校です。

 ははにつれられてのはじめての登校とうこう朝礼ちょうれいだったのでしょうか、校庭こうていにたくさんの子どもたちがならんでいました。二十人くらいのれつが二十ほどあったようにおもいます(もっとあったかもしれません)。

「トシちゃん、あそこにならぶんですよ」

 と、母がゆびさしたところはいちばんみぎの列でした。校長先生こうちょうせんせいだとおもうのですが、だんじょうから、

「あたらしい一年生のおともだちがふえました。戦争のため、中国から日本にもどってきたお友だちです。なかよくしてあげましょうね」

 というはなしをしたようにおぼえています。

 教室きょうしつにはいると、五十人くらいの生徒せいとがいました。一年生は三クラスで男女だんじょはべつべつでした。

 らないかおの子ばかりでしたが、ひっこみじあんになることなく、すぐにみんなとなかよしになれたようにおもいます。家から学校まではあるいて五分ほどでしたが、毎朝まいあさ、二、三人の子がむかえにきてくれました。

 しばらくたったある日の朝礼、とてもかわいいおんなの子がお父さんにつれられてやってきました。転校生てんこうせいです。その日から、わたしはその女の子のことが気になりました。

 アメリカのマンガにでてくる主人公しゅじんこうのような女の子で、目がパッチリしていて、色白いろじろ。かみはパーマをかけていました。小学校でパーマをかけている子なんていませんから、それだけで目立めだちます。

 毎朝、おとうさんがくるまおくってきます。もちろん、車で学校にくる子もいません。わたしはとおくからながめていました。毎日まいにちかわるカラフルな洋服ようふくはかわいく、いつも新品しんぴんのようにせいけつな感じがしました。その子がとてもまぶしくみえました。

 顔をみることができるのは、毎朝の登校のときと、朝礼のときだけです。あそび時間じかんになると、みんな校庭にでます。わたしはがつくと、その子の姿をおいもとめていました。たまにみかけるその子は、いつもひとりぼっちで、ほかの子と話したり、あそんだりしません。

 校舎こうしゃのかべによりかかっていたり、砂場すなばのふちにこしかけて、あそんでいるみんなをジーっとみているか、とおくのそらをみつめているばかりでした。わたしはそんなその子をみて、なぜかかなしい気持きもちになりました。

 おとこの子は男の子だけで、女の子は女の子だけであそびます。それがあたりまえになっていましたので、その子をさそってあげて、いっしょにあそぼうというかんがえはうかびませんでした。

 ある日の朝礼のことです。わたしはおチビさんだったのでまえのほうにならびます。その子はとなりのとなりの列に、わたしよりすこしうしろにならんでいます。わたしは顔をすこしひだりに、そしてしたけ、かたごしにチラチラと、その子のほうに目をやっていました。

 何回目なんかいめにか、その子の目とあってしまいました。ふしぎそうな顔をしてわたしをみます。

 (あっ、いけない)

 わたしはあわててまえを向きました。むねがドキドキ、ではなく、ドッキンドッキンとなりだしました。

 どうやってしらべたのかおぼえていませんが、その子がすんでいる家がどこにあるのかもしっていましたし、おかあさんがなくなっていることもしっていました。きっと、きれいなお母さんなのだろうと想像そうぞうしていました。

 その子の家は二階にかいての洋館ようかんてつのさくでかこまれ、にわはひろく木々きぎがおいしげっていました。外国人がいこくじんの家のようで、とてもりっぱでした。

 車での登校、カラフルな洋服、りっぱな洋館、お金持かねもちなんだなあ、とおもっていました。かわいい子なのに、だれともあそばずにさみしそうにしている。そして、お母さんがいない。わたしがその子のことを気にしたのは、そんな理由りゆうがあったからかもしれません。

 何年生なんねんせいのときだったかおぼえていません。友だちと下校げこうのときか、それともあそんでいた夕方ゆうがただったでしょうか。おとなたちが、

 「火事かじだっ」

 と、ドヤドヤとはしっていきます。消防団しょうぼうだん一台いちだい、二台とやってきました。わたしたちはそのあとを、興奮こうふんしながら一生いっしょうけんめいおいかけました。

 「あっ」

 火事は、その子がすんでいる洋館でした。二階から火がでていました。たいへんなことになるのではないかと、わたしは息ぐるしくなってきました。人だかりが、もうできていました。わたしたちはもぐりこむようにして、みんなのまえのほうにでていきました。

 消防士しょうぼうしさんたちがもつホースから、みずがいきおいよくでています。たくさんのおとなたちが大声おおごえでさけびながら、あたりをはしりまわっています。家のなかから、おおきなものをはこびだしている人たちもいました。

 (あの子はどうしたろう)

 (お手伝てつだいをしなければ)

 そんなことをおもったとおもいます。でも、ただこわさでそこにたっているだけでした。

 火はおさまりましたが、きれいな洋館のかべはくろになり、水びたしでした。洋館のまわりもビシャビシャで、いろいろなものがちらかっていました。庭の木が何本なんぼんかおれていました。けむりがまだモウモウとたちこめていて、シューシューというおとがきこえてきました。

 わたしはすこしおちついたようです。その子がちかくにいないかと、あたりを目でさがしていました。

 (どこにいったんだろう)

 (もう、どこか安全あんぜんなところにいっちゃったんだ)

 その子のすがたがみえないということは、わたしにとっておおきな不安ふあんになりました。家にかえってから、両親りょうしんに火事の話をしながらたべた夕ごはんは、あまりすすまなかったようです。でも、とてもつかれたせいか、いつのまにかグッスリとねむってしまいました。

 次の日、いつもよりはやく目がさめました。

 (あの子はどうなったのだろう)

 (学校にくるかな)

 その子がくるのをたしかめようと、すこしはやく登校しました。でも、その子は学校にきませんでした。ずーっとずーっときませんでした。

 その子がまた、転校していったのをしったとき、上海から日本にもどる船のうえで、もうみんなとあえないのかとおもったときと、おなじようにかなしい気持ちがしました。いつもいる人がいなくなる。それはとてもさみしくかなしい経験けいけんでした。

 男の子が女の子をすきになるって、どんなことかまだわからないときです。おとなになってかんがえたとき、それはわたしの初恋だったのかもしれないとおもいました。とおいとおいむかしのことです。その女の子の名前なまえをどうしてもおもいだせません。

 小学校時代で、もう一人わすれられない子がいました。青柳あおやぎくんという男の子です。家がちかいので、毎日、青柳くんの家のまえをとおって学校にいきます。二階建てで、わたしの家よりも二倍も三倍もおおきな家です。

 青柳くんは知的障害ちてきしょうがいのある子で、お手伝いさんが毎日、おくりむかえしていました。でも、いつもしらない間にいなくなってしまいます。みんなで、学校中がっこうじゅうをさがしまわったことがなんどもあります。

 二時間目、三時間目がはじまるころになると、いなくなってしまうのです。はじめての行方不明事件ゆくえふめいじけんは、

 「あれっ、青柳くんはどうした?」

 という先生のことばからはじまりました。だれかが、

 「便所べんじょじゃねーのか」

 というと、べつの子が、

 「学校のおじさんたちがたきびをしているところに、いたみたいだったよ」

 といいだし、教室中がザワザワガヤガヤしてきました。

 「先生、みてくるよ」

 だれかの一声ひとこえで、大捜査だいそうさがはじまりました。わたしたち少年しょうねんたんていだんは、トイレくみとたきび組にわかれてとびちりました。わたしはトイレ組。

 「おちちゃったんじゃねーのか」

 むかしのトイレは、いまとちがって水洗すいせんでもないし、洋式ようしきでもありません。便器べんきにはそこがなく、ふかくてくらいおおきなあなが下にひろがっています。子どもたちにはすこしこわいところです。

 「おーい、いたら返事へんじしろよ」

 と、便器をのぞきこむようにしてさけぶ子がいました。わたしは、おちていたら、返事なんてできるはずがないとおもいながらも、おちていたらどうしようとこわくなってきました。

 けっきょく捜査は失敗しっぱいで、青柳くんはみつかりませんでした。先生が青柳くんの家とれんらくをとったのでしょう。青柳くんは家にかえっていました。

 青柳くんがいなくなると、先生は家にすぐれんらくをとるのですが、青柳くんは、まっすぐにもどらないときもあって、また、大捜査がはじまるのです。

 二年生か三年生になったころでしょうか。わたしは級長きゅうちょう学級委員がっきゅういいん)をやっていましたので、青柳くんがいなくなると、

 「青柳くんの家にいってみてくれないか」

 と、先生せんせいにつれもどしてくるよう、よくいわれました。それで、昼休ひるやすみに青柳くんの家にいき、もんの外からおおきな声でよびかけます。

 「いっしょに学校にいこうよ」

 でも、青柳くんは、いつも家からでてこようとはしませんでした。

 わたしは、青柳くんを学校につれてくることが、自分じぶん役目やくめのようにおもうようになりました。朝、なんどか青柳くんをむかえにいきました。

 「青柳くん、学校、いこう」

 すると、お手伝いさんが、門のそばにあるちいさな通用口つうようぐちから、すまなそうな顔をしてでてきます。

 「ごめんなさいね。もうすこししたら学校につれていきますから」

 お手伝いさんは、たいがいそういいます。でも、学校を休んでしまうことがしょっちゅうありました。そんなことが何回もつづいて、わたしは青柳くんをさそうのをやめてしまいました。先生は、毎日さそってあげてといいます。それで、また、さそいにいくのですが、お手伝いさんが、

 「きょうはぐあいがわるいので、やすみます」

 というときがあります。

 「先生、青柳くんは休みです」

 というと、先生に、

 「どうしてつれてこないの」

 と、しかられたりしたことが何回もありました。

 (ぼくがわるいんじゃないのに、なんでしかられなければならないの)

 と、ちょっとほっぺがふくらむときがありましたが、先生はわたしを信頼しんらいしていたのだとおもいます。

 声をかけてなかよくしてくれる子がいれば、青柳くんが学校にくるようになるとかんがえていたのでしょう。

 わたしにも同じ気持ちがありました。青柳くんをなんとかして、学校にこさせたいとおもっていましたが、それ以上いじょうのことはできませんでした。青柳くんが学校にこないのは、自分の努力どりょくがたりないからだと、ちいさな胸をいためたものでした。

 青柳くんといっしょにあそんだおもいだでありませんし、話をしたという記憶きおくもありません。たまに教室にいる青柳くんはくびをかしげ、無表情むひょうじょうになにかをみているだけでした。青柳くんもそのうち、学校にこなくなってしまったようにおもいます。

 最近さいきんえき構内こうないで、おにいさんやおねえさんたちが何人かで、車イスの身障者しんしょうしゃの人のお世話せわをしている光景こうけいをよく目にすることがあります。その人たちはみんな笑顔えがおにあふれ、まわりをあかるくしてくれます。

 よわい人を、やさしくつつみこんであげようとすると、かならず何人かの人たちがちからをあわせようとしてくれます。みんなで力をあわせてがんばろうという気持ちが、自然しぜんにわいてくるのでしょう。そうすることで、みんな人間的にんげんてきにりっぱに成長せいちょうしていくのだとおもいます。

 青柳くんのこともそうでした。二、三人のなかよしの友だちが、わたしといっしょになって青柳くんをむかえにいきました。そのとき、わたしはちょっぴり、おとなになったような気がしていました。きっと友だちも、そんな気持ちになっていたとおもいます。