長久保先生という男の先生がいました。一年生から三年生までの担任です。二十二、三年前、長久保先生におあいしたいとおもい、おすまいを桃園第二小学校でおしえてもらって、先生をたずねました。先生は昔とおなじく、小学校のそばにすんでいました。
四十年ちかくおあいしていませんし、先生は七十歳をこえています。わたしも五十歳くらいになっていましたから、はたして、先生はおぼえていてくれているだろうか、すこし不安でした。
「あっ、あのときの……あなたはたいへん絵がおじょうずでしたね」
と、先生はすぐにおもいだされました。わたしがソニーでテープレコーダーやビデオをつくっていることをお話しすると、
「そうそう、工作もじょうずでしたからね。よかったよかった」
先生はほんとうによくおぼえてくれていて、目をほそめ、ニコニコしてとてもよろこんでいました。二人で思い出話に花をさかせました。
それから二年くらいたったでしょうか、また、おあいしたいとおもってれんらくをとったところ、残念ながら、先生はすでになくなられていました。
☆
わたしが高校生になったころ、日本はアメリカと戦争をはじめました。戦争がおわりにちかづくにつれ、東京の空には、アメリカ軍の爆撃機がたくさんあらわれました。爆撃機はつぎつぎとたくさんの爆弾をおとしました。
東京は火の海。おとなもこどももたくさんの人が死んでいます。小学校の友だちにも爆弾で死んでいる人がいます。また、東京はあぶないからと、いなかにいってしまった人がたくさんいました。
そのため、だれがどこでくらしているのか、また、元気でいるのかまったくわかりません。長久保先生がなくなってしまったいま、小学校の思い出を話しあう人が、だれもいなくなってしまいました。
たのしかった小学校時代を、はっきりとおもいださせてくれるのは、手元にのこっている、そのころの写真か、いまもある桃園第二小学校の建物だけになってしまいました。もっと先生とお話がしたかった……とても残念でなりません。
わたしが技術の道にすすむようになったのは、父の影響がおおきかったのですが、長久保先生に絵のかきかたや、工作のおもしろさを、おしえてもらったこともあったとおもいます。
休みの日でも、先生の家にいって絵や工作、そして、習字もおしえてもらいました。一年生のときから、三年間くらいそれはつづきました。絵はクレヨン画から絵の具をつかう水彩画までやりました。
二年生か三年生のころだったとおもいます。ねんどでコップやさらなど、食器ひとそろいをつくりました。それぞれに絵の具で色をつけ、その上にきれいな絵をかきました。みただけでは、ねんどでつくったものとわかりません。じっさいにつかうこともできます。
「これはきれいだ。本物の食器のようだね」
長久保先生はねんどの食器を、中野区の展覧会にだしてくれました。展覧会をみにいったら、わたしがつくった食器に、金賞の札がかかっていました。
「木原くん、よかったね。ほんとうによかった」
先生はたいへんよろこんでくれました。友だちもほめてくれました。わたしが両親以外からほめてもらったのは、このときがはじめてでした。
子どもでも、他人からほめられると、自分がみとめられたというほこりをもつことができます。このときの先生のひとことは、ほんとうにうれしくおもいました。
初夏のあるとき、原っぱの向こうにある、林の間からのぞいているレンガ色の洋館を写生していました。空は青く、白い雲がぽっかり浮かんでいました。木はきれいな緑のはっぱをたくさんつけていました。
先生がうしろからのぞきこむようにして、こういいました。
「空は青い、雲は真っ白ときめてはいけないよ。とおくのほうは少し灰色っぽくないか。その上のほうをよくみてごらん。黄色もまじっているようにみえるだろう。
木だって、同じ緑ではないとおもうよ。黒っぽいところだってあるんじゃないか。ほら、ひかってるところもあるよ。よく観察することが大事なんだよ」
そして、こうもおしえてくれました。わたしは画用紙の下三分の一に原っぱを、真ん中の三分の一に林と洋館、そして、のこりの上三分の一に空をかいていました。
「洋館をかいているんだろう?だったら原っぱをかくのをやめて、三分の二くらいに林と洋館をかいて、あとは空をかくというのはどうだろう。絵がおおきくみえるよ。
原っぱに花でもさいていれば、原っぱを下半分にかいて、残りの三分の一くらいかな、林と洋館をそのくらいにして空をかけば、絵に遠近感がでてくるんだ」
絵には構図というものが大事なのだと、先生はおしえてくれたのです。たしかに、なにをおおきくかくか、上からみおろしてかくか、下からみあげたようなかたちでかくかで、同じものをかいてもまったくちがう絵になります。そういうことをしってからは、ますます絵をかくのがおもしろくなっていきました。
かいた絵はかならず先生にみせました。先生はまずほめてくれます。それから注意点をおしえてくれます。子どもはほめられれば、もっとじょうずになろうとがんばります。すきなことがもっとすきになります。わたしもそうでした。だから、長久保先生は、わたしがだいすきな先生なのです。
先生は、ボール紙でミニチュアの家をつくる方法もおしえてくれました。そのうち、わたしのほうが、先生よりじょうずにつくれるようになっていました。
自分でかんがえながら箱庭もつくってみました。あさい箱に土や砂をいれ、そこに家や庭をつくります。家はボール紙でつくった屋根がわらをのせ、縁側もつくります。もちろん、きれいに色をぬります。庭には小枝をうえ、池もつくります。わりばしをけずって、げたもつくりました。げたは小指のつめくらいのおおきさで、鼻緒もつけました。
上海のおみやげもの屋で、こまかくほられた彫刻品をみていたので、やる気になれば自分にもできるとおもっていたので、箱庭づくりは、それほどむずかしくはありませんでした。
やりはじめると、学校からはまっすぐにかえってきて、もう夢中になっていました。友だちと外であそぶより、箱庭づくりのほうがおもしろいのです。熱中できるものをみつけたわたしは、だんだん友だちとあそばなくなってきました。
でも、友だちがいなくなったわけではありません。友だちは箱庭をみに、わたしの家によくきました。
「これ、おまえがつくったのか」
家をつまむ子がいました。
「げたじゃねーか。器用だなあ」
チョンチョンとつっつく子もいました。
「おしちゃだめだよ」
友だちは、学校からますぐにかえるわたしが、家でなにをしているのかしりたかったようです。自分でもつくってみようという子は、一人もいませんでした。
「おまえ、こんなめんどうくさいこと、よくできるな」
と、あきれるやら、感心するやら。
☆
四年生になると、父が科学雑誌をかってくるようになりました。日本は中国と戦争をはじめていますし、アメリカとの仲もだんだんにわるくなっているころでした。雑誌や本があふれている時代ではありません。いまのように本屋さんはあまりありませんでしたし、子どもがよむ本もすくなかったようにおもいます。また、子どもたちも、本をよむということをあまりしませんでした。
『少年クラブ』といった子ども向けの月刊雑誌もかってくれました。これはもうたのしみな雑誌でした。かたい紙でつくる国会議事堂や大阪城のふろくがついていたからです。
国会議事堂をきりぬき、のりしろにのりをつけてはりあわせていきます。どことどこをはりあわせればいいかと、ワクワクしながらかんがえてつくります。一度完成するとバラバラにして、こんどはもっときれいにはりあわせてつくりなおします。あきることなくやっていました。
科学雑誌は、父がすきだったのでかってきてくれたのです。
「トシちゃん、今月号はおもしろそうだよ」
父は会社からかえってくると、カバンの中から雑誌をとりだします。父のカバンは、わたしにとっては玉手箱です。
雑誌のページをめくると、自転車にエンジンをつければ、オートバイができるという記事がのっていました。
「ねえねえ、エンジンがかえれば、オートバイがぼくでもつくれるんだよね」
「そうだよ。すごいぞ」
「二台つくれば、どっちが速いか競争できるね」
父と二人で、もうおおはしゃぎです。
あるときは、エンジン飛行機をつくって、飛ばそうというのもありました。その科学雑誌は中・高校生向きだったとおもいます。でもそのくらいむずかしくないと、わたしにはおもしろくありませんでした。
そのほかにも、ページごとに図がはいっていて、理科の勉強になるようなこともたくさんのっていました。
小学校四年生になってからのわたしは、科学雑誌に刺激され、いろいろな機械をつくることに熱中していました。
なにかをつくってみる、それを完成させたよろこびは、また、なにかをつくりたくさせます。先生におしえてもらった工作、雑誌のふろくは、ものをつくるおもしろさを、よろこびをおしえてくれました。そして、もっとむずかしいものをつくりたいという、挑戦するこころをそだててくれました。
たとえば、だれもができるやさしいモーターをまずつくります。そのとき、どうしてモーターが回転するのかという理由をまなびます。そうすれば、もっと複雑な形をしたモーターでも、つくり方をおしえてもらわなくても、実物をみるだけで、かんたんにできてしまうのです。
電池をつかってならすベルもつくりましたが、ただ、つくり方どおりやるのではなく、スイッチを入れると、どうして音がでるのかといったことを、いちいち理解しながらつくっていきました。
大事なのは、モーターでもベルでも、なぜまわるのか、どうしてなるのかの理由をしることです。それを原理といいます。原理をしっていれば、応用は、むずかしいことではありません。
モーターは、鉄のあきカンを利用し、磁石、電池、銅板、エナメル線、それにふといはしなどをつかってつくります。そのころは、銅板でも、エナメル線でもかんたんに手にはいりました。あれはどこのお店でうっている、あっちのお店のほうがいいものがあるとか、そんなことをしるのも、とてもたのしいことでした。
☆
科学雑誌は、わたしにいろいろなことをおしえてくれ、学校の勉強にたいへんやくだちました。
先生がふり子をふりながら、問題をだしました。
「このふり子は、一秒間に一回往復しています。ひもの長さはどのくらいあるでしょうか」
といって、わたしたち生徒全員の顔をみわたします。シーンとした空気がながれ、なかには、先生にさされるのがいやだというふうに、下を向いた子もいました。
(ぼくをさしてくれないかな)
わたしは顔をあげ、先生の顔をみつめました。その答えをしっていたので、早く答えたくてうずうずしていたからです。でも、すぐに答えてはいけないのだろうな、と思っていましたので、「ハイ」といって、手をあげるのをがまんしていました。
「だれもわからないのかな。では木原くん」
まってました。わたしはたちあがりおおきな声で、
「ハイ、25センチです」
と答えました。わたしのまえの席にいる子たちが、いっせいにふり向きました。ふしぎそうな目を向けている子もいましたし、不安そうな顔をした子もいました。
(なんで25センチなんだ)
(答えがあってなかったら、ぼくがあてられちゃう……)
(だいじょうぶかよ。答え、あってんのか)
みんなの顔にはそうかいてありました。わたしは自信満々。先生のつぎのことばがわかっているからです。この瞬間は、なんともいえない、いい気持ちです。
「そのとおり」
先生のこのひとことで、
「すげえ、木原はなんでしってるんだ」
と、教室中がザワザワしはじめました。先生がまた質問しました。
「じゃあ木原くん、1回の往復を2秒間にするには、ひもの長さをどのくらいにすればいいでしょうか」
「1メートルです」
「木原くんはよくしっていますね」
ふり子の1回往復する時間を2倍にするときは、ひもの長さが4倍に、時間を3倍にするときは、ひもの長さが9倍になることを、科学雑誌をよんでしっていました。いまは小学校5年生でならうことだとおもいますが、わたしは3、4年生のころには、すでにしっていました。
先生は理科の宿題をだすとき、わたしにこういいます。
「木原くんはわかっちゃっているんだろうな。答えをいわないようにね」
このころの担任の先生は、長久保先生ではありませんでした。でも、その先生も生徒をよくほめてくれました。
みんながしらないことをしっている。そして、先生にほめられる。友だちも、「すごい」「おまえ、頭いいな」といってくれる。とてもうれしくなり、ほこらしげな気持ちになります。もっともっと、いろいろなことをしりたい、とおもうようになります。それで本をよくよみます。わたしの場合は、科学についての雑誌や、本をよむことがおおかったようです。