公開日 : 2018/10/28

だいすきな先生

 長久保ながくぼ先生せんせいという男の先生がいました。一年生から三年生までの担任です。二十二、三年前、長久保先生におあいしたいとおもい、おすまいを桃園ももぞの第二だいに小学校しょうがっこうでおしえてもらって、先生をたずねました。先生はむかしとおなじく、小学校のそばにすんでいました。

 四十年ちかくおあいしていませんし、先生は七十さいをこえています。わたしも五十歳くらいになっていましたから、はたして、先生はおぼえていてくれているだろうか、すこし不安ふあんでした。

 「あっ、あのときの……あなたはたいへんがおじょうずでしたね」

 と、先生はすぐにおもいだされました。わたしがソニーでテープレコーダーやビデオをつくっていることをおはなしすると、

 「そうそう、工作こうさくもじょうずでしたからね。よかったよかった」

 先生はほんとうによくおぼえてくれていて、をほそめ、ニコニコしてとてもよろこんでいました。二人でおもばなしはなをさかせました。

 それから二年くらいたったでしょうか、また、おあいしたいとおもってれんらくをとったところ、残念ざんねんながら、先生はすでになくなられていました。

 わたしが高校生こうこうせいになったころ、日本はアメリカと戦争せんそうをはじめました。戦争がおわりにちかづくにつれ、東京とうきょうの空には、アメリカぐん爆撃機ばくげききがたくさんあらわれました。爆撃機はつぎつぎとたくさんの爆弾ばくだんをおとしました。

 東京はうみ。おとなもこどももたくさんの人がんでいます。小学校のともだちにも爆弾で死んでいる人がいます。また、東京はあぶないからと、いなかにいってしまった人がたくさんいました。

 そのため、だれがどこでくらしているのか、また、元気げんきでいるのかまったくわかりません。長久保先生がなくなってしまったいま、小学校の思い出を話しあう人が、だれもいなくなってしまいました。

 たのしかった小学校時代を、はっきりとおもいださせてくれるのは、手元てもとにのこっている、そのころの写真しゃしんか、いまもある桃園第二小学校の建物たてものだけになってしまいました。もっと先生とお話がしたかった……とても残念でなりません。

 わたしが技術ぎじゅつみちにすすむようになったのは、ちち影響えいきょうがおおきかったのですが、長久保先生に絵のかきかたや、工作のおもしろさを、おしえてもらったこともあったとおもいます。

 やすみのでも、先生のいえにいって絵や工作、そして、習字しゅうじもおしえてもらいました。一年生のときから、三年間くらいそれはつづきました。絵はクレヨンから絵のをつかう水彩画すいさいがまでやりました。

 二年生か三年生のころだったとおもいます。ねんどでコップやさらなど、食器しょっきひとそろいをつくりました。それぞれに絵の具でいろをつけ、その上にきれいな絵をかきました。みただけでは、ねんどでつくったものとわかりません。じっさいにつかうこともできます。

 「これはきれいだ。本物ほんものの食器のようだね」

 長久保先生はねんどの食器を、中野区の展覧会にだしてくれました。展覧会をみにいったら、わたしがつくった食器に、金賞きんしょうふだがかかっていました。

 「木原くん、よかったね。ほんとうによかった」

 先生はたいへんよろこんでくれました。友だちもほめてくれました。わたしが両親以外りょうしんいがいからほめてもらったのは、このときがはじめてでした。

 子どもでも、他人たにんからほめられると、自分がみとめられたというほこりをもつことができます。このときの先生のひとことは、ほんとうにうれしくおもいました。

 初夏しょかのあるとき、はらっぱのこうにある、はやしあいだからのぞいているレンガいろ洋館ようかん写生しゃせいしていました。そらあおく、しろくもがぽっかりかんでいました。はきれいなみどりのはっぱをたくさんつけていました。

 先生がうしろからのぞきこむようにして、こういいました。

 「空は青い、雲は真っ白ときめてはいけないよ。とおくのほうはすこ灰色はいいろっぽくないか。そのうえのほうをよくみてごらん。黄色きいろもまじっているようにみえるだろう。

 木だって、おなじ緑ではないとおもうよ。くろっぽいところだってあるんじゃないか。ほら、ひかってるところもあるよ。よく観察かんさつすることが大事だいじなんだよ」

 そして、こうもおしえてくれました。わたしは画用紙がようし下三分したさんぶんいちに原っぱを、なかの三分の一に林と洋館、そして、のこりの上三分の一に空をかいていました。

 「洋館をかいているんだろう?だったら原っぱをかくのをやめて、三分の二くらいに林と洋館をかいて、あとは空をかくというのはどうだろう。絵がおおきくみえるよ。
 原っぱにはなでもさいていれば、原っぱを下半分したはんぶんにかいて、残りの三分の一くらいかな、林と洋館をそのくらいにして空をかけば、絵に遠近感えんきんかんがでてくるんだ」

 絵には構図こうずというものが大事だいじなのだと、先生はおしえてくれたのです。たしかに、なにをおおきくかくか、上からみおろしてかくか、下からみあげたようなかたちでかくかで、同じものをかいてもまったくちがう絵になります。そういうことをしってからは、ますます絵をかくのがおもしろくなっていきました。

 かいた絵はかならず先生にみせました。先生はまずほめてくれます。それから注意点ちゅういてんをおしえてくれます。子どもはほめられれば、もっとじょうずになろうとがんばります。すきなことがもっとすきになります。わたしもそうでした。だから、長久保先生は、わたしがだいすきな先生なのです。

 先生は、ボールがみでミニチュアの家をつくる方法ほうほうもおしえてくれました。そのうち、わたしのほうが、先生よりじょうずにつくれるようになっていました。

 自分でかんがえながら箱庭はこにわもつくってみました。あさい箱につちすなをいれ、そこに家や庭をつくります。家はボール紙でつくった屋根やねがわらをのせ、縁側えんがわもつくります。もちろん、きれいに色をぬります。庭には小枝こえだをうえ、いけもつくります。わりばしをけずって、げたもつくりました。げたは小指こゆびのつめくらいのおおきさで、鼻緒はなおもつけました。

 上海しゃんはいのおみやげもので、こまかくほられた彫刻品ちょうこくひんをみていたので、やるになれば自分じぶんにもできるとおもっていたので、箱庭づくりは、それほどむずかしくはありませんでした。

 やりはじめると、学校からはまっすぐにかえってきて、もう夢中むちゅうになっていました。ともだちとそとであそぶより、箱庭づくりのほうがおもしろいのです。熱中ねっちゅうできるものをみつけたわたしは、だんだん友だちとあそばなくなってきました。

 でも、友だちがいなくなったわけではありません。友だちは箱庭をみに、わたしの家によくきました。

 「これ、おまえがつくったのか」

 家をつまむ子がいました。

 「げたじゃねーか。器用きようだなあ」

 チョンチョンとつっつく子もいました。

 「おしちゃだめだよ」

 友だちは、学校からますぐにかえるわたしが、家でなにをしているのかしりたかったようです。自分でもつくってみようという子は、一人もいませんでした。

 「おまえ、こんなめんどうくさいこと、よくできるな」

 と、あきれるやら、感心かんしんするやら。

 四年生になると、父が科学雑誌かがくざっしをかってくるようになりました。日本は中国ちゅうごくと戦争をはじめていますし、アメリカとのなかもだんだんにわるくなっているころでした。雑誌やほんがあふれている時代ではありません。いまのように本屋ほんやさんはあまりありませんでしたし、子どもがよむ本もすくなかったようにおもいます。また、子どもたちも、本をよむということをあまりしませんでした。

 『少年クラブ』といった子ども向けの月刊げっかん雑誌もかってくれました。これはもうたのしみな雑誌でした。かたいかみでつくる国会議事堂こっかいぎじどう大阪城おおさかじょうのふろくがついていたからです。

 国会議事堂をきりぬき、のりしろにのりをつけてはりあわせていきます。どことどこをはりあわせればいいかと、ワクワクしながらかんがえてつくります。一度完成かんせいするとバラバラにして、こんどはもっときれいにはりあわせてつくりなおします。あきることなくやっていました。

 科学雑誌は、父がすきだったのでかってきてくれたのです。

 「トシちゃん、今月号こんげつごうはおもしろそうだよ」

 父は会社かいしゃからかえってくると、カバンのなかから雑誌をとりだします。父のカバンは、わたしにとっては玉手箱たまてばこです。

 雑誌のページをめくると、自転車にエンジンをつければ、オートバイができるという記事がのっていました。

 「ねえねえ、エンジンがかえれば、オートバイがぼくでもつくれるんだよね」

 「そうだよ。すごいぞ」

 「二台にだいつくれば、どっちがはやいか競争きょうそうできるね」

 父と二人ふたりで、もうおおはしゃぎです。

 あるときは、エンジン飛行機ひこうきをつくって、ばそうというのもありました。その科学雑誌は中・高校生向きだったとおもいます。でもそのくらいむずかしくないと、わたしにはおもしろくありませんでした。

 そのほかにも、ページごとにがはいっていて、理科りか勉強べんきょうになるようなこともたくさんのっていました。

 小学校四年生になってからのわたしは、科学雑誌に刺激しげきされ、いろいろな機械きかいをつくることに熱中していました。

 なにかをつくってみる、それを完成かんせいさせたよろこびは、また、なにかをつくりたくさせます。先生におしえてもらった工作、雑誌のふろくは、ものをつくるおもしろさを、よろこびをおしえてくれました。そして、もっとむずかしいものをつくりたいという、挑戦ちょうせんするこころをそだててくれました。

 たとえば、だれもができるやさしいモーターをまずつくります。そのとき、どうしてモーターが回転かいてんするのかという理由りゆうをまなびます。そうすれば、もっと複雑ふくざつな形をしたモーターでも、つくり方をおしえてもらわなくても、実物じつぶつをみるだけで、かんたんにできてしまうのです。

 電池でんちをつかってならすベルもつくりましたが、ただ、つくり方どおりやるのではなく、スイッチを入れると、どうして音がでるのかといったことを、いちいち理解しながらつくっていきました。

 大事なのは、モーターでもベルでも、なぜまわるのか、どうしてなるのかの理由をしることです。それを原理げんりといいます。原理をしっていれば、応用おうようは、むずかしいことではありません。

 モーターは、てつのあきカンを利用りようし、磁石じしゃく、電池、銅板どうばん、エナメルせん、それにふといはしなどをつかってつくります。そのころは、銅板でも、エナメル線でもかんたんに手にはいりました。あれはどこのおみせでうっている、あっちのお店のほうがいいものがあるとか、そんなことをしるのも、とてもたのしいことでした。

 科学雑誌は、わたしにいろいろなことをおしえてくれ、学校がっこう勉強べんきょうにたいへんやくだちました。

 先生がふりをふりながら、問題もんだいをだしました。

「このふり子は、一秒間いちびょうかんに一回往復おうふくしています。ひものながさはどのくらいあるでしょうか」

 といって、わたしたち生徒全員せいとぜんいんかおをみわたします。シーンとした空気くうきがながれ、なかには、先生にさされるのがいやだというふうに、したいた子もいました。

(ぼくをさしてくれないかな)

 わたしは顔をあげ、先生の顔をみつめました。そのこたえをしっていたので、はやく答えたくてうずうずしていたからです。でも、すぐに答えてはいけないのだろうな、と思っていましたので、「ハイ」といって、をあげるのをがまんしていました。

「だれもわからないのかな。では木原くん」

 まってました。わたしはたちあがりおおきなこえで、

「ハイ、25センチです」

と答えました。わたしのまえのせきにいる子たちが、いっせいにふり向きました。ふしぎそうな目を向けている子もいましたし、不安ふあんそうな顔をした子もいました。

(なんで25センチなんだ)

(答えがあってなかったら、ぼくがあてられちゃう……)

(だいじょうぶかよ。答え、あってんのか)

 みんなの顔にはそうかいてありました。わたしは自信満々じしんまんまん。先生のつぎのことばがわかっているからです。この瞬間しゅんかんは、なんともいえない、いい気持ちです。

「そのとおり」

 先生のこのひとことで、

「すげえ、木原はなんでしってるんだ」

 と、教室中きょうしつじゅうがザワザワしはじめました。先生がまた質問しつもんしました。

「じゃあ木原くん、1回の往復を2秒間にするには、ひもの長さをどのくらいにすればいいでしょうか」

「1メートルです」

「木原くんはよくしっていますね」

 ふり子の1回往復する時間を2倍にするときは、ひもの長さが4倍に、時間を3倍にするときは、ひもの長さが9倍になることを、科学雑誌をよんでしっていました。いまは小学校5年生でならうことだとおもいますが、わたしは3、4年生のころには、すでにしっていました。

 先生は理科の宿題しゅくだいをだすとき、わたしにこういいます。

「木原くんはわかっちゃっているんだろうな。答えをいわないようにね」

 このころの担任の先生は、長久保先生ではありませんでした。でも、その先生も生徒をよくほめてくれました。

 みんながしらないことをしっている。そして、先生にほめられる。友だちも、「すごい」「おまえ、あたまいいな」といってくれる。とてもうれしくなり、ほこらしげな気持ちになります。もっともっと、いろいろなことをしりたい、とおもうようになります。それで本をよくよみます。わたしの場合は、科学についての雑誌や、本をよむことがおおかったようです。